Mag-log in土曜日の朝、私が自分の部屋を片づけている間に、怜央さんは玄関のスリッパを三回並べ直していた。
一度目は左右がそろっていなかったから、二度目は靴箱の扉に近すぎたから。そして三度目は、私が通りかかったときに理由を聞いたせいで、本人も説明するのを諦めた。「踏んで滑らない位置を考えてた」「美緒、普通に歩けるよ。玄関で難しいことはしないから」「分かってる。部屋の片づけは終わったのか?」 都合の悪い質問を返され、私は手にしていた漫画を背中へ回した。探していた巻は見つかったものの、その過程で別の箱を開けてしまい、部屋の床は朝より狭くなっている。「今、最後の調整をしてるところ」「それなら、玄関より自分の部屋を気にしたほうがいい」 正論を置いてリビングへ戻る背中に、私は小さく舌を出した。どうやら、普通にしていてほしいというお願いは、今のところ半分くらいしか届いていない。 午後、駅まで迎えに行くと、美緒は小さな紙袋を提げて改札から出てきた。中身は家族で食べてほしいという煎餅で、母の店が菓子を扱放課後レターが再開した月曜日、私は二時間目の授業中に、ノートへ「受付」と書いてしまった。 先生が黒板に書いたのは、どう見ても英単語だった。私の手元だけが勝手に別の仕事を始めている。慌てて消しゴムをかけたら、消したい文字より先に、その下の罫線が薄くなった。 朝、予定どおり受付が開いたことは確認してある。次に管理画面を見るのは、放課後の担当時間だ。 分かっているのに、鞄の中のスマートフォンが妙に気になった。通知が鳴ったわけでもない。ただ、そこにあると思うだけで、確かめる理由が次々に浮かんでくる。 表示がおかしくなっていたらどうしよう。送信できない人がいたら。逆に、誰からも何も届いていなかったら。 どちらにしても落ち着かないのだから、確認したところで私の心配は終わらない気がした。 昼休み、美緒は私の弁当箱を見て、箸を止めた。「ひまり、その卵焼き、さっきからずっと持ち上げたり戻したりしてるけど、何か相談してるの?」「してない。ちょっと考え事してただけ」「じゃあ食べてあげて。私の見てる限り、三回くらい口の手前で引き返してる」 言われてようやく、箸の先に卵焼きを挟んだままだと気づいた。口へ入れると、いつもの甘さがした。朝、母が少し焦がした端を自分の分へよけていたのを思い出して、ようやく食べ物のことを考えられた。「今日からだもんね。気になるのは分かるけど、午後も授業あるよ」「分かってる。午前中も、ちゃんと聞いてたし」「それなら、英語の宿題、どこまで?」 私は箸を置いた。 美緒は責める顔もせず、自分の鞄から手帳を取り出した。該当のページを開いてこちらへ向ける手つきが、妙に慣れている。「助かるけど、今の質問、分かっててしたでしょう」「うん。自信たっぷりだったから、少し確かめたくなった」 私は宿題の範囲を書き写し、そのまま手帳を閉じた。スマートフォンを出す口実まで一緒にしまったつもりだったのに、美緒は私の手元を見て、小さく笑った。「終わったら、話せることだけ教えてね。相談の中身じゃなくて、ちゃんと帰れたとか、お腹が空いたとか」「それ、感想が全部
瀬名先輩は、練習用の相談文を自分の前へ置くと、わざわざ椅子に浅く座り直した。「では、友達の誘いを断れなくて困っている高校生です。週末は家で寝たいんですけど、誘われると行くって答えてしまいます。断ったあと、次から自分だけ呼ばれなくなったら嫌なので」「そこまで役に入らなくても、普通に読んでもらえれば大丈夫です」「朝倉さん、それを言うと、俺が楽しんでるだけみたいになるでしょう」 九条先輩が記録用の紙から顔を上げた。「楽しんでいるのは事実でしょうけれど、続けてください。相談者役が途中で傷つかないように、とは練習項目にありませんから」 瀬名先輩は胸に手を当てたものの、すぐ私たちの返信案へ戻った。ふざけているようで、読む目は真剣だった。 窓の外から、運動部の掛け声が聞こえる。私は新しい紙の上にペンを置き、自分が書いた返事をもう一度読んだ。 誘われてうれしい気持ちと、休みたい気持ちは、両方あってもおかしくない。友達を嫌いになったわけではないのだから、自分を責めなくていい。 そこまでは、今も消したくなかった。「朝倉さんのを読むと、ほっとするんだよね。俺が薄情だから面倒に感じるわけじゃないんだって。ただ、そのあと友達から『土曜どうする?』って来たら、やっぱり行くって返すと思う」「休んでもいいって書いたんですけど、それだけだと足りないですか」「休んでいいのは分かった。でも、断って気まずくなるのと、ちょっと無理して出かけるのを比べたら、後者を選んじゃいそう」 私は、相談文の『次から誘われなくなるのが怖い』という部分へ線を引いた。 その気持ちを受け止めたつもりだった。でも、受け止めたあと、同じ場所へ返してしまっているのかもしれない。 瀬名先輩は、今度は怜央さんの案を持ち上げた。「こっちは、何て返したらいいか書いてあるから助かる。『予定を確認してから返事をする』っていうのも、すぐ使えそう。でも俺、友達を待たせるだけでも落ち着かないんだよね。あとで断るくらいなら、今、行くって言っちゃおうかなってなる」「そこまで即答する必要はない、と伝えたいんだけど」「うん。頭では分かるんだけ
再開のお知らせを書き終えたとき、私はまず、画面の右側にある細い棒を見た。 文章が長くなるほど短くなる、スクロールのための表示である。最初は親指くらいの長さがあったのに、今は小指の爪ほどしかない。途中から、再開を知らせるために書いているのか、これまでの自分を反省するために書いているのか、よく分からなくなっていた。 それでも、書いたことは全部、必要に思えた。 受付を止めたことへのお詫び。待ってくれた人へのお礼。運営方法を見直した理由。以前と同じ形では再開できないこと。できることと、できないこと。読み終えた人が不安にならないように付け加えた説明が、読む人を疲れさせる量になっている。 私は椅子の上で膝をそろえ直し、約束していた共有先へ原稿を送った。 送信の表示を確かめた途端、直したい言い回しが見つかった。けれど、今さらにらんでいても、送った文章は変わらない。私は画面を閉じ、机の端に置いた水を飲んだ。 返信が来たのは、夕飯を食べ終えて、食器を流しへ運んでいるときだった。 向かいで皿を重ねていた怜央さんが、私のスマートフォンが震えたのを見て口を開く。「原稿の確認、送った。今、少し話してもいいか」「いいけど、もしかして長かった?」「少し」「その『少し』、何行くらい削るつもりで言ってる?」 彼は返事をする前に、手にしていた皿を置いた。 その慎重さが、すでに答えだった。 ダイニングへ戻ると、母がテレビの音量を少し下げた。私たちの前にはノートパソコンが一台あるだけだったのに、通りがかった和臣さんが「会議?」と尋ねたので、私は慌てて首を横に振った。「原稿をちょっと見るだけです。今日は、もう長くやらないので」「じゃあ、僕がお茶をいれる間くらいかな」 そう言って台所へ向かった和臣さんの背中を見送り、私は画面を開いた。怜央さんが椅子を隣へ寄せたので、思わず自分の肘を引く。 学校では机を挟んで話すことが多い。横に並ぶだけで、同じ文章を見る姿勢が妙に窮屈になった。「まず、最初の一文は、このままでいいと思う」 彼が指したのは、『お待たせしました』から始まる文
月曜日の放課後、生徒会室の扉の前で、私は持ってきた資料の角をそろえた。 家を出る前にも確認したし、昼休みにも読み返した。紙の順番が勝手に変わるはずはないのに、もう一度確かめたくなる。いちばん上の案内文には、自分で書き込んだ赤い文字が、印刷された文章と同じくらい並んでいた。「入る前から、それだけ直してきたんだ」 背後から声をかけられて振り向くと、瀬名先輩が鍵の束を指に引っかけて立っていた。「はい。説明が分かりにくいところがあったので」「なるほど。会長も似たようなこと言ってたよ。今日は長くなりそうだから、お茶を先に用意しようかな」「長くするつもりはないんですけど」「二人とも、最初はそう言うんだよね」 否定しきれないまま、先に開けてもらった扉をくぐった。 窓際の席では九条先輩が書類を確認していて、その向かいに怜央さんが座っていた。制服の袖口から見える手首も、資料をめくる指も、土曜日にケーキを取り分けていたときと同じなのに、机と椅子が変わるだけで少し遠く見える。 それでも今日は、その距離をわざわざ広げなくていい。「失礼します。御影先輩、案内文の修正案を持ってきました」「ああ。こちらも、担当の分け方を少し整理した。先に案内文から確認しよう」 差し出された資料を受け取り、私は空いている席に座った。瀬名先輩がお茶を置いてくれたので礼を言うと、九条先輩が時計を確かめ、手元のペンを持ち直した。「では、今日決めるのは告知の内容と、試験運用の日程、担当ですね。途中で別の話になったら戻しますから、そのつもりでお願いします」「別の話って、主にどっちが始めるんですか」 つい尋ねると、九条先輩は私と怜央さんを順に見た。「今のところ、同じくらいです」 公平な判定に、瀬名先輩が楽しそうに笑った。私はお茶を飲む前に、最初の資料を机の中央へ置いた。 放課後レターを二週間だけ、受付範囲を絞って再開する。 その方針自体は、もう決まっている。今日は、それを利用する人へどう伝え、実際に誰が何をするかを詰めるための打ち合わせだった。 私は案内文の冒頭を指さした
土曜日の朝、私が自分の部屋を片づけている間に、怜央さんは玄関のスリッパを三回並べ直していた。 一度目は左右がそろっていなかったから、二度目は靴箱の扉に近すぎたから。そして三度目は、私が通りかかったときに理由を聞いたせいで、本人も説明するのを諦めた。「踏んで滑らない位置を考えてた」「美緒、普通に歩けるよ。玄関で難しいことはしないから」「分かってる。部屋の片づけは終わったのか?」 都合の悪い質問を返され、私は手にしていた漫画を背中へ回した。探していた巻は見つかったものの、その過程で別の箱を開けてしまい、部屋の床は朝より狭くなっている。「今、最後の調整をしてるところ」「それなら、玄関より自分の部屋を気にしたほうがいい」 正論を置いてリビングへ戻る背中に、私は小さく舌を出した。どうやら、普通にしていてほしいというお願いは、今のところ半分くらいしか届いていない。 午後、駅まで迎えに行くと、美緒は小さな紙袋を提げて改札から出てきた。中身は家族で食べてほしいという煎餅で、母の店が菓子を扱っているから迷った末、甘くないものにしたらしい。「お母さんが喜ぶと思う。仕事では甘いものばっかりだから、家だとしょっぱいもの食べたがるんだよね」「よかった。あと私、ちゃんと普通にするから。先輩が家にいるからって、変にかしこまったりしないし」 その言葉を信じて坂道を上ったのに、玄関で怜央さんが迎えに出た瞬間、美緒の背筋は見事に伸びた。「本日はお招きいただき、ありがとうございます」「そんな挨拶、私の家で聞いたことないんだけど」「ちょっと待って。私も今、自分でびっくりした」 美緒は小声で答えたが、すぐ目の前にいる怜央さんには聞こえていたらしい。彼は笑いをこらえるように口元を引き締め、代わりに一歩横へよけた。「どうぞ、上がってください。荷物はこちらへ……いや、持ったままで大丈夫です。ひまり、先に案内してあげて」「美緒はお客様だけど、視察に来た人じゃないからね。あと、荷物をどこに置くかは、リビングに着いてから決めればいいと思う」 私が先に廊下へ上がる
月曜日の放課後、美緒は私の机まで来ると、鞄を抱えたまま少し考え、こんなことを言った。「今日の話って、甘いものを食べながら聞いても大丈夫なやつ?」 朝から何度も頭の中で説明を練習していた私は、用意していなかった質問に顔を上げた。美緒はふざけているというより、行き先を決めかねている顔だった。「大丈夫だと思うけど、どうして?」「真面目な話の途中でお腹が鳴るの、嫌じゃない。私、今日のお弁当、見た目よりご飯が少なかったんだよね。お母さんがおかずの下にブロッコリーを詰めてて、食べ進めても白米にたどり着かなかった」 その説明を聞いた途端、胸のあたりに詰まっていたものが少し緩んだ。私が一日中、秘密を打ち明けることばかり考えている間、美緒は美緒で、弁当箱の底に予想外の緑を発見していたらしい。「じゃあ、どこか寄ろう。できれば、学校の人があんまりいないところがいいんだけど」「了解。駅の向こうなら、今の時間は空いてると思う」 美緒はそれ以上、教室では尋ねなかった。帰り支度を終えた私に、机の脇へ掛けたままのサブバッグを指で示し、それを受け取ると、いつものように先に廊下へ出た。 私はその背中を見ながら、今日ちゃんと話そう、ともう一度思った。 駅から少し離れた喫茶店は、窓際に年配の夫婦が一組いるだけだった。私たちは奥の二人掛けの席に座り、飲み物とプリンを注文した。店員さんが去ったあと、美緒は鞄を隣の籠に入れ、私のほうへ向き直った。「それで、引っ越しの話って?」 待ってくれていた声だった。急かされていないのに、私は背筋を伸ばした。「お母さんが再婚したことは、前に話したよね。その相手の人に、息子さんがいるんだ」「うん。じゃあ、今はその人とも一緒に暮らしてるの?」「そう。私より一つ上で、同じ学校に通ってて」 美緒の眉がわずかに動いた。私はそこで言葉を止めず、膝の上で両手を重ねたまま続けた。「御影先輩なんだ。お母さんが結婚したの、御影先輩のお父さんとで……今、四人で暮らしてる」 美緒は私を見たまま動かなかった。 窓際でカップが受け皿に置かれる音が







